「平等」を求めること自体に無理がある!?

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「公平」と「平等」は同じ意味ではありません。国語辞典的な違いは知りませんが、公平には「心」が介在していて、平等は単純に数学的無機質さを感じます。
多くの先進国の基本理念に「自由と平等、独立」が挙げられています。日本もこれら国の一員です。さて、ここに「平等」とありますが、小学生の社会科でこの言葉の需要性について習ったように記憶していますが、当時から違和感を覚えていました。「差別」を擁護するはずもありませんが、少年の稚拙な思考では、「いけない差別」の払拭として「平等」を習い、押し込められていたことに疑問を感じていたのだと思います。大人になった今だからそう言えるだけです。この年齢になっても未だに「平等」に対して小さいけれども不満を含んだ違和感が消えません。無条件に「平等」が正義としていて正しいのか?そんな違和感です。 

 

オリンピックと並列(パラレル)にパラリンピックが行わています。身体の不自由者も健常者と同様にスポーツに興じたいということです。そのことには一部を除けば違和感はありません。
その一部というのは「排他的ではないだろうか」という気分です。不自由度合いでランクやカテゴリーが分かれて競技されます。著しく不利な身体での差をできるだけ取り除く理由からで、それはには一切疑問を感じません。ただ、一部の競技、例えば、「車椅子バスケット」。健常者も同じルールで参加して具合が悪いようには思えないのです。スキーのオリンピック滑降競技に健常者選手の中に、例えば片方の足を失った選手が参戦しても問題は起こらないと思います。それは、片足の選手の方にハンディーがあるから、それを克服して戦うことになるからに他ありません。
パラリンピックの車椅子バスケットにおいて、両足があることが、つまり健常者であることが、アドバンテージに成りうるのかどうか。やってみないと分からないし、身体不自由者にとって健常者と同じルールで戦えることは真に「福祉共存社会」、「バリア・フリー」と言えまいかと思うのです。陸上競技100mダッシュでは、義足者の記録が健常者を上回りそうな勢いです。どちらの境遇の人にも楽しみな時代になってきています。

 

社会がのべつ、「平等」である必要が本当にあるのか疑問です。仮に、ガンと国家方針が「そうあるべし」というなら、公職選挙の票の重さに微塵の違いがあっても無効であるべきで、解消不可能ではありません。制度が欠陥だからこうなっているのです。
公職選挙について、極端に言ってしまえば、全部全国区、かつ、1人1票でなく、最大、議員数分の投票を許可すれば「票の不平等。票の重さの格差」を確実に解決できます。いろんな理屈をこねくり回してそうならないのは、党利党略が歪(いびつ)にしているからです。

 

ここに、「ピザ」があって、二人で分けることを想定しますと、ほとんど問題になく分けることができるはずです。ところが、「酒」であった場合、問題は確実に起こります。酒呑みは妥協ができません。一本の瓶に入っている酒を歪な形の器に二人で分けることを想定するのです。二人共、酒には目がありません。どうするか?
結果は、「平等」に分けることはほぼ不可能です。しかし、「公平」に分けることは可能です。じゃんけんでも何でも構わないので、分ける人物を二人が納得できる方法で選出します。その人物が、自分が納得できる分量にその歪な器に分けるのです。徹底的に自分が納得する分量です。それを、もう一方の人物に選択させればいいのです。計測すると著しく不平等かもしれません。ただし、お互いに微塵の不満もなく「公平」に酒は分けられたのです。ピザの場合、酒呑みと違って、簡単に妥協できますから、問題ありません。

 

では、酒を分けることが3人以上であったらどのような方法で「公平」に分けることができるでしょうか。
この問題を解決する手段は、日本では禁じられている「賭博」を企画し、参加するしかありません。賭博で順位を決め分捕る(ぶんどる)のです。もしくは、分けた酒の器の選択権の優先順位を賭けるのです。

 

 

日本が法律で賭博を禁じる根拠は次のとおりです。

 

「国民の射幸心をあおるのは勤労によって財産を得ようとするという健全な経済的風俗を害する」
という理由によります。

 

さて、ここで先ずの疑問は、「射幸心」です。 この文章だけでは、「射幸心」を否定しています。本当にいけないことなのでしょうか。幸せを射止めたい気持ちです。いけないの?初詣の神頼みは?チャペルを出てくる新婦の投げるブーケは?堂々と意中を表明告白し結婚を申し込むことは?幸福をもとめることを自分以外(お賽銭、神籤、舞い上がるブーケ)に託すことが不道徳なことでしょうか?甚だ疑問です。
次の「健全な経済的風俗」って何?自然界を相手にした一次産業である農業、漁業従に従事すること、労働に微塵の賭博性はないというのでしょうか?天候は?体調は?一次産業産物からの二次産業である工業に従事労働することに賭博性はないの?なぜ倒産するの?なぜ在庫が溢れるの?三次産業は?